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讃岐 (涅槃の道場)


第66番札所 雲辺寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

寺伝によれば、789年(延暦8年)に佐伯真魚(後の空海・弘法大師)が善通寺建立のための木材を求めて雲辺寺山に登り、この地を霊山と感得し堂宇を建立したことを起源とする。空海はまた、807年(大同2年)には秘密灌頂の修法を行い、さらに818年(弘仁9年)に嵯峨天皇の勅命を受けて本尊を刻んで、七仏供養を行ったという。後に「四国高野」と呼ばれ、僧侶の修業道場となり、貞観年間(857年から877年)には清和天皇の勅願寺ともなった。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

仁王門の脇に手水舎があり、仁王門をくぐり石段を上がると右手に鐘楼、正面奥には大師堂拝殿があり履物を脱いで回廊を回って裏に行くと、大師堂奥殿がある。大師堂拝殿の左手前のスロープーを降りていくと、コンクリートの本堂側面が見え、左に納経所がある。本堂の左に護摩堂さらに本坊がある。

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第67番札所 大興寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

寺伝によれば、天平14年(742年)に東大寺の末寺として建立された。その後、最澄の影響で天台宗となる。火災により焼失していた諸堂を、嵯峨天皇の勅願によって空海(弘法大師)が弘仁13年(822年)に現在地より北西約1kmに熊野三所権現を鎮護する霊場として再興し、また、本尊に薬師如来と脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで堂宇を建立し安置したという。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

小さい川をわたり仁王門をくぐると石段があり上り詰めると右に鐘楼左に手水舎、正面に本堂、本堂の左奥に弘法大師堂、右奥に天台大師堂がある。本堂の向って左側が納経所になっている。

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第68番札所 神恵院

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

法相宗の日証上人が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。この老人は八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を山上に祀り琴弾八幡宮と名付けた。行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年に空海(弘法大師)が訪れ、琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描き安置した

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

仁王門をくぐり参道を進むと石段があり上り切ると右に鐘楼があるが、左に折れまた右を見るとお堂の向こうにコンクリート打ちっぱなしの建造物があり、その中の石段を登ると本堂がある。大師堂は戻って降りた右手にある。

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第69番札所 観音寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

寺伝によれば、行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年 (807)空海(弘法大師)が第7世住職として入山し、奈良の興福寺を模して、中金堂(ちゅうこんどう)に聖観世音菩薩像を刻み本尊とし、丈六の薬師如来を納めた西金堂(さいこんどう)や弥勒菩薩を納めた東金堂(とうこんどう)など七堂伽藍を整備し、さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃・珊瑚・瑪瑙などの七宝を埋め地鎮したことから、名称も七宝山観音寺と改めたという。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

仁王門をくぐり参道を進み石段を上りきると正面に愛染堂、その左に大師堂、右手に鐘楼堂、さらに右奥に本堂がある。愛染堂の右の五智如来石像の右の石段を上ると正面に薬師堂がある。

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第70番札所 本山寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

寺伝によれば、大同2年(807年)、平城天皇の勅願寺として、空海(弘法大師)が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊、阿弥陀如来と薬師如来を脇侍として開創し長福寺と称したという。この時、本堂はわずか一夜でできたという「一夜建立」の伝説がある。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

二王門をくぐると正面奥に本堂があり、その手前右に大師堂がある。納経所は本堂の左側を通過し奥に進み本坊の門をくぐり中に入って左にある。

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第71番札所 弥谷寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

寺伝によれば、聖武天皇の勅願により行基が堂宇を建立し、光明皇后の菩提を弔うため、大方広仏華厳経(伝・光明皇后書写)を祀り、寺院を創建したとされる。当初は中国、四国の八国が眺められたことにちなみ蓮華山八国寺と称したという。また、空海(弘法大師)は7 - 12歳の期間、当寺にある岩窟である獅子之岩屋で学問に励んだという。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

赤い手すりの108階段を上り詰めると目の前に大師堂がある。右に進むとすぐ左上に多宝塔があって稲荷社はその脇にある。鐘楼は正面にあり、その前の石段を上って行くと途中の右に観音堂、左に十王堂があり、上り詰めると正面に岩窟の護摩堂がある。その護摩堂の右脇の急斜面に荒れた激急坂歩道の上に権現堂が見える。護摩堂を左に進むと水場があり、石段は二手に分かれ右の方に上がると途中、岩壁に弥陀三尊磨崖仏があり、それを過ぎるとやっと本堂がある。

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第72番札所 曼荼羅寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

寺伝によれば、空海(弘法大師)の出身氏族である佐伯氏の氏寺として推古天皇4年(596年)に創建され、当初は世坂寺(よさかじ)と称したという。 空海が唐より帰国後、請来した両界曼荼羅を奉納し、大日如来を本尊として安置し再興、母(伝承では玉依御前)の菩提寺とし、曼荼羅寺と改称したと伝える。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

山門をくぐり進むと本堂、その手前を左に行くと大師堂、右に進むと納経所がある。


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第73番札所 出釈迦寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

寺伝によれば、空海(弘法大師)が7歳の時に倭斬濃山(わしのやま)(現、我拝師山)に登り、「仏門に入って多く人と衆生を救いたいのです。私の願いが叶うなら釈迦如来様、お姿を現して下さい。もし、願いが叶わないのなら私の命を仏に供養します」と願い、山の断崖から谷へと飛び降りた。すると、落下する空海の前に釈迦如来と天女が現れて抱きとめ、「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就された。感激した空海は、釈迦如来が現われた山を「我拝師山」名づけ、その山に出釈迦寺を建立し、釈迦如来の尊像を刻んで本尊としたという。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

山門を進み右に折れると左に納経所があり、正面に本堂、その右側が大師堂と並置されている。本堂の左の石段を上がると赤い壁の地蔵堂があり、その先に奥之院遥拝所と大きな石の台座に虚空蔵菩薩石像があり、眼前に奥の院のある我拝師山がそびえる。

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第74番札所 甲山寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

伝説では、壮年期の空海が寺を建立しようと幼きとき遊んだこのあたりを探索していると老翁が現れ、この地にお寺を建立すべしとお告げをした。この地の岩窟に住む毘沙門天の化身と悟った空海はこの岩窟に毘沙門天を祀った。 その後、嵯峨天皇の勅命を受け別当として満濃池の修築を命じられた空海は、この地で薬師如来を刻み修法すると数万の人々が集まり、無事に築造を完成に導いた。弘仁12年(821年)その功績に対して朝廷から二万銭が与えられ、その一部によって堂を建立したのが当寺の始まりであるという。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

甲山(標高87.2m)には、室町時代に天霧城の出城があったと云われていて、山頂に石舞台跡があり、頂上には神武天皇孝明天皇震儀石がある。また、当寺から山頂に向かう山道には江戸時代末期に開かれたという西国三十三所の石仏が並んでいる

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第75番札所 善通寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

空海(弘法大師)は讃岐国、現在の善通寺市の出身である。『多度郡屏風浦善通寺之記』によれば、善通寺は空海の父で地元の豪族であった佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ、法名善通)から土地の寄進を受け、大同2年(807年)に建立し始め、弘仁4年(813年)に落成したという

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

南大門から入ると右に五重塔が聳え、正面に本堂がある。本堂手前を左にまっすぐ進むと、中門で東院を出て塔頭寺院の間を行くと、西院(御誕生院)に至る。廿日橋を渡り仁王門、回廊を経て正面に大師堂がある。納経所は仁王門をくぐってすぐに右に行けばある。

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第76番札所 金倉寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

774年(宝亀5年)景行天皇の子孫の和気道善(円珍の祖父)が金輪如意(如意輪観音)を祀って一堂を建立し自在王堂と呼ばれていた。 851年(仁寿元年)道善の子である和気宅成の上奏により、自在王堂を官寺とし道善寺と名付けた。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

山門から入り、参道を進むと正面に本堂、本堂の右手に納経所、左に進むと大師堂がある。


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第77番札所 道隆寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

寺伝によれば、和銅5年、当地の領主である和気道隆が桑の大木が夜ごと怪しい光を放ったのでその方向に矢を射ると、矢が乳母に当たり誤って殺してしまった。これを悲しんだ道隆は桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。道隆の子の朝祐は、大同2年(807年)唐から帰朝した空海に頼み、90cmほどの薬師如来を彫像し、その胎内に道隆の像を納め本尊とし、また、空海から受戒を受け第2世住職となって、七堂伽藍を建立し父の名から「道隆寺」と号した

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

仁王門を入ると参道一番奥に本堂があり、その手前の右に大師堂、左に納経所がある。小さいさまざまな祠は本堂を取り巻くように点在する。本坊は、仁王門の門前の右にある遍路用品店と境内の間の道を進み突き当たりを右に行くとある。

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第78番札所 郷照寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

寺伝によれば、行基が神亀2年(725年)に一尺八寸(55cmという説も)の阿弥陀如来を本尊として道場寺の名で開基した。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。その時に厄除の誓願を修し大師像を納め、それが「厄除うたづ大師」として信仰されていると云われている。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

山門をくぐり、左側の石段を上がると駐車スペースになっていて左側にある鐘楼と手水舎の前の数段の石段を上がると左に納経所、右向こうに本堂がある。本堂左の通路を通り石段を上がると正面に大師堂がある。

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第79番札所 天皇寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

天平年間に行基は、カナヤマビメカナヤマビコが鎮座される金山に薬師如来を本尊とした堂宇を開創した[3]。さらに後、空海(弘法大師)が八十場の泉を訪れたとき、金山権現の化身である天童が現れ閼伽井を汲み大師に給仕し、この山の仏法を守るようにと宝珠を預けた。大師はこの宝珠を嶺に埋め、荒廃していた堂舎を再興し、その寺を摩尼珠院妙成就寺(まにしゅいん みょうじょうじゅじ)と号した[4]。 また大師は、その霊域にあった霊木で本尊十一面観音、脇侍阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を刻造して安置した。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

四脚の赤い鳥居をくぐり、正面奥は白峰宮であり、その手前を左に行くと天皇寺の本堂とその左に大師堂がある。右の門を入って行くと本坊がありその右側に納経所がある。白峰宮本殿の向って右を通り境内を通り抜け裏に通ずる車道を500mほと行くと八十蘇場の清水と地蔵堂がある。

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第80番札所 國分寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

国分寺は天平13年(741年)聖武天皇が発した国分寺建立の詔により日本各地に建立されたとされ、当寺もその頃の創建と推測される。寺伝では、行基が千手観世音菩薩を本尊として開基したとされる

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

仁王門をくぐり八十八ケ所の石像が両脇にならぶ参道を進むと左に閻魔堂があり右に四国最古の釣鐘があり、さらに行くと礎石のならぶ間を行き小さな橋を渡ると正面に本堂が立つ。本堂を背に左手を進むと白い多宝塔があり、それが大師堂である。その右の門から遍路用品のならぶ店内に入るとそこが大師堂拝殿であり、納経所でもある。

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第81番札所 白峯寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

寺伝よれば、空海(弘法大師)が弘仁6年(815年)この地に訪れ、白峰山頂(標高337m)に如意宝珠を埋めて、仏に供える水を汲む閼伽井を掘り、衆生救済の請願をした。


◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

山門をくぐり右に御成門、その先に勅使門があり、その後ろに客殿、本坊がある。左に茶堂と御手洗がある。そのままむと正面に護摩堂があり、中に納経所がある。護摩堂を前に見て左に進むと右に弁財天社祠、水子地蔵・手水舎があり正面に勅額門、その奥に頓証寺殿がある。そして右にはるか上に続く石段が見える。その石段を上って行くと左に薬師堂右に鐘楼堂、つぎは左に行者堂右に廻向堂があり、石段を上り詰めた正面に本堂がある。

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第82番札所 根香寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

寺伝によれば、空海(弘法大師)が弘仁年間(810年 - 824年)にこの地を訪れ五色台の五つの峰に金剛界の五智如来を感得し密教の修行にふさわしい台地であるとし、その一つである青峰に一宇を建立し五大明王を祀り「花蔵院」と称し、衆生の末代済度を祈願する護摩供を修法をしたと伝えられている。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

山門の左側の林の中に牛鬼像がある。山門をくぐり数段下り進むと今度は上りの石段があり、上がって行くと右に大師堂、左に納経所がある。さらに石段を上がり上り詰めると正面に本堂が見えるが左の薄暗い回廊の中を巡って本堂に至る。

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第83番札所 一宮寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

寺伝によれば、義淵により法相宗の寺院として大宝年間(701年-704年)に建立され、年号にちなみ大宝院と称したと伝えられる。そして、和銅年間、諸国に一の宮が制定された際、讃岐一宮・田村神社の第一別当として行基が堂宇を改修し一宮寺と改めたという。その後大同年間(806年- 810年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備し、106cmの聖観世音菩薩像を刻んで安置し、真言宗に改宗した。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

通常は仁王門とは反対の裏側にある西門の前に駐車場があるので、そこから入っていくと本堂左手に至り、大師堂は本堂の右側にあり、護摩堂は大師堂の左にある、納経所は本堂から仁王門に向かうと左手にあり、鐘楼は右手にある。

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第84番札所 屋島寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれ奈良に向かう途中に当地を訪れて開創し、そののち弟子で東大寺戒壇院の恵雲がお堂を建立し屋島寺と称し初代住職になったという。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

歩き遍路は山門を通り、四天門を通って正面に本堂、本堂の手前を右に進むと右手に納経所、正面に大師堂がある。車遍路は東大門から入って行くことになり、千体堂、三体堂、大師堂の順になる。

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第85番札所 八栗寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

弘法大師作の歓喜天が祀られていて「八栗の聖天さん」と呼ばれる[1]。 寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を修めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げた。空海は降ってきた剣を中獄に埋め、岩盤に丈六の大日如来の像を刻んで山の鎮護とし五剣山と名づけ天長6年(829年)開基したという。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

歩き遍路は山門から入って正面に本堂、その手前左に納経所、右にずーと進んでいくと大師堂があり、その向こうに多宝塔がある。ケーブルカー利用は、ケーブル山上駅を出て進み左に曲がり道なりに行くと多宝塔、大師堂、さらに参道を行くと正面に聖天堂があり、その左が納経所で、右上に本堂がある。

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第86番札所 志度寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

681年(天武天皇10年)藤原不比等が堂宇を増築し「死度道場」と名づけたという。また、693年(持統天皇7年)には不比等の子・藤原房前が行基とともに堂宇を建立し、寺名を「志度寺」に改めたと伝えられている。この海辺は極楽浄土へ続いているとの信仰を伝えると『梁塵秘抄』に書かれているという。 その後、巡錫に来た、弘法大師が伽藍の修理にあたったのは弘仁年間である。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

仁王門をくぐり、左側の2つ目の通路を行き手水舎と鐘楼堂の間を進むと五重塔の前に出る。その先にある奪衣婆堂を参拝後、右前に進むと本堂があり、その右に大師堂がある。大師堂を背に左に三尊仏があり、進むと閻魔堂がある、さらに進むと三社の祠を過ぎ薬師堂がある。右に曲がり左のピンク色の納骨堂を越えて左側の宝物館と書院の間を入って行くと右側に垣根に囲まれた無染庭があり前方に曲水式庭園が広がる。

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第87番札所 長尾寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

空海(弘法大師)が渡唐前、入唐求法の成功を祈願し年頭七夜の護摩の秘法を修し、その7日目の夜に護摩符を丘の上より人々に投げ与えたとの伝説があり、これは毎年1月7日の「大会陽福奪い」として今に伝わっている。天長2年(825年)唐より帰朝した空海は大日経を一石に一字写経の万霊供養塔(現存せず)を建立し伽藍を整え真言宗に改宗した。

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

仁王門をくぐって正面に本堂、その右に大師堂がある。納経所は本堂の向かいにある。


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第88番札所 大窪寺

◆参拝日    2017/5/12    (曇り)

寺伝によれば、奈良時代の養老年間(717年-724年)に行基がこの地を訪れたとき悪夢を感得し草庵を建て修行をしたのが開基とされ、弘仁年間 (810-823) に唐から帰朝した空海(弘法大師)が現在の奥の院にある岩窟で虚空蔵求聞持法を修し、谷間の窪地に堂宇を建て等身大の薬師如来坐像を刻んで安置し、また恵果阿闍梨から授かった三国伝来の錫杖を納めて、窪地にちなみ「大窪寺」と名付けたとされている

◆風景や感じたこと    (境内や行事など)

山門は南側から石段を上がった所にある木造の二天門と平成2年(1990年)に完成した西側から入る鉄筋の仁王門の2つがある。本堂は二天門の正面にあり、大師堂は仁王門の正面上にある。納経所は本堂の左手にある。

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