春ちゃんのひとりごと
トピックス

No.37    (船岡山&船岡温泉)    2021/2/10

2/4(木)京都の北に位置する標高112m(比高95m)の船岡山に登りました。船岡山の岩盤はチャートと呼ばれる堆積岩で、約2億年前に海底で形成された後、隆起した地層群で、至るところに層状のチャートが露出しています。
船岡東通りから石段を登ると建勲(たけいさお)神社が鎮座します。織田信長と信忠を祭祀するこの神社は明治13年(1880年)に明治天皇により創建され、その後、明治43年(1910年)に現在の地に移建されました。高台にある境内からは大文字山、比叡山が望めます。神社所有の重要文化財として義元左文字(信長が今川義元から得た太刀)、紺糸威の胴丸鎧、太田牛一自筆の信長公記があります。
船岡山の南側には船岡温泉があります。大正12年(923年)に料理旅館「船岡楼」の付属浴場であったものを昭和22年(1947年)に銭湯として営業を始めたもので、欅の格天井に鞍馬天狗と牛若丸の彫刻は圧巻です。また欄間の透かし彫りには葵祭の行列や今宮神社の祭礼等があり見事です。
船岡山は平安京の時代、大極殿の北に当たり磐座として信仰され、応仁の乱では西軍の陣地ともなりました。現在は船岡山公園として児童公園もあり、野外ステージもあります


No.36    (タルチョの風)    2020/12/25

よく行くインドカレーの店には天井から五色の釣り鐘形の布が吊るされています。店の天竺出身の店員さんに「あれは何ですか?」と問うと「神様を具現化したもの」との返事が返ってきました。またこの店にはシバ神、パールバティー、ガネーシャも壁に張られています。
五色の布について調べてみました。チベットの五色の祈祷旗タルチョに起源があるようです。マニ旗、ルンタ、風馬旗とも呼ばれ、仏法が風に乗って広がるように願いが込められています。
チベットの山岳地帯ではこの五色旗が至るところに棚引いています。
日本の仏教会でもこの五色を用いた旗があります。仏旗は1885年にセイロン(スリランカ)のコロンボ委員会でデザインされたと言われています。
青(緑)は仏陀の頭髪の色「定根」を表し、黄は仏陀の身体の色「金剛」を、赤は仏陀の血液の色「精神」を、白は仏陀の歯の色「清浄」を、樺(橙)は仏陀の袈裟の色「忍辱」を表していると言われています。
日本神道でも真榊の五色の垂れ布が使用され、神の依代とされています。
五行思想では青(東)、赤(南)、黄(中央)、白(西)、黒(北)とされ、相撲では土俵の南に赤、北に黒、東に青(緑)、西に白の房が吊るされています。オリンピックの五輪は赤、黄、緑、青、黒となっています。
古代中国に端を発する自然哲学の思想は、万物は火、水、木、金、土の5種の元素からなると言います。西洋でもプラトン、アリストテレスなどが四元素説を唱えました。現在では水素(原子番号1)からウラン(原子番号92)までの原子が地球に存在していますので自然科学から見れば理論哲学に優るものがあると言えます。
しかし、信仰は自然の理論とは異なる時限のものにあります。このインド料理店のタルチョ風のものに何かが当たると不思議な風が吹くのです。


No.35    (比叡山トレイル)    2020/10/28

10/27、8:30 日本バブテスト病院の横道から沢に沿って山道を登って行くと大山祇神社(山の神)にたどり着きます。さらにいきますと、白幽子という仙人が住んでいたと言われている岩窟につきます。さらに急な坂を進みますと瓜生山の山頂に到着です。幸龍大権現が祀られています。ここで一息。
石鳥居を経て山を下ると、沢があり、足場の悪い丸太橋を渡ります。ここから険しい山道を登ると開けた地に「水飲対陣跡碑」があり、ここは修学院音羽谷の地で、後醍醐天皇方の公家、千種忠顕が足利高氏の弟、直義の軍と戦い戦死した場所です。ここから更に急峻な山道を登ると眼下に宝ヶ池が見渡せる広い尾根に到着しましたので、ここで昼食にしました。(11:30) 山でほおばるおにぎりは最高でした。
「淨刹結界」入り口の地蔵を横目に更に長い急な足場の悪い山道を登ると電波塔があり、ここが比叡山の山頂です。(848m)
ここから坂本の方へ下り、修復中の根本中堂、文殊楼などを拝観し、一撞き50円の鐘を撞きました。いい音色が共鳴してなかなかのものでした。
帰りは坂本ケーブルを下り、JR坂本駅から新快速で京都に帰りました。
坂本ケーブルの頂上駅からの琵琶湖の眺めは眼下に沖島が遠望でき、以前に琵琶湖で唯一の有人島に渡った日の事が思い出されました。


No.34    (大和盆地へ)    2020/9/6

9/3に大和方面を散策しました。
24号線を南下し、田原本町に入ると左側に蕨手の突き出た楼閣が見えてきます。「唐古・鍵遺跡」です。この楼閣は出土した土器に刻まれた多層式の楼閣を復元したものです。弥生時代中期の大型建物跡が発掘され、銅鐸の工房跡も見つかっています。さらに南下すると明日香村豊浦の甘樫丘に至ります。丘に登りますと眼下に飛鳥寺、藤原京跡、大和三山が望めます。丘上には蘇我蝦夷、谷間には蘇我入鹿の邸宅があったと言われています。
法興寺(飛鳥寺)で日本最古の大仏(釈迦如来)を拝み、さらに南下して石舞台古墳に到着しました。花崗岩の巨石で造られたこの古墳は冬野川上流3kmの多武峰から運ばれたもので、『日本書紀』推古天皇の条に「大臣こうきょせぬ、仍りて桃原墓に葬る」とあり、蘇我馬子の墓とされています。
帰りに大和一ノ宮、大神神社に参拝し、第7代、孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲媛の墓とされる箸墓古墳を周遊し帰って来ました。


No.33    (伊勢神宮ヘ)    2020/7/18

過日、友人四人で伊勢神宮に参拝しました。
伊勢神宮の御祭神は『古事記』には天照大御神、『日本書紀』には天照大神と表記されています。別名の大日靈貴(オホヒルメノムチ)の日靈(ヒルメ)は日の女神を表し、靈は巫と同義で、古来は太陽に仕える巫女であったとも考えられます。
古事記、日本書紀の成立は8世紀の初期ですので、それ以前の架空の人物を天皇家の祖神として創造したものだと思われます。
伊勢神宮の創建は第11代、垂仁天皇の時代とも言われていますが、『扶桑略記』には「壬申の乱」の戦勝祈願の礼として、第40代、天武天皇の時代に大伯皇女が初代の斎宮として伊勢に下向したのが始まりだと書かれています。弟の大津皇子が伊勢に会いに来た時の歌が残されています。
「わが背子を大和ヘ遣るとさ夜深けて暁(あかとき)露にわが立ち濡れし」 この斎宮の制度は南北朝まで続きますが、その後は途絶えています。戦後、神宮の祭主は女性の元皇族が務め、現在の祭主は黒田清子氏が就任されています。
神宮の参道につながる「おかげ横丁」は江戸末期から明治初期の鳥居前の町並みを再現した観光地ですが、これは「赤福」の社長が約140億円をかけて平成5年(1993)に完成した町並みです。


No.32    (夏越の祓い)    2020/7/1

6/30は半年分のケガレを落とす「夏越の祓い」でした。各地の神社ではチガヤを束ねた輪が神前に造られ、厄落としのため、この茅の輪をくぐります。茅は先が鋭く尖っていて剣を意味し、これを潜ることでケガレを落とし、夏の暑さ、疫病から身を護ると言われています。
近くの西院春日神社では、ちびっこ達が8の字を描くように茅の輪をくぐっていました。
また、厄落としのため、人の形を模した紙の形代(かたしろ)に名、歳を書き、それで体を撫で、形代に罪やケガレを移し、身代わりとして神社に納め川に流したり篝火を焚いたりして、水や火で浄め厄をおとします。
冷房のない時代には夏に疫病が流行しました。宮中では旧暦の6月1日に「氷の節句」が行われ、氷室に貯蔵して置いた氷を口にして、夏を健康にと祈りました。
「水無月」は庶民の氷への憧れからできた夏越しの和菓子です。


No.31    (高野山ヘ…)    2021/6/19

6/16(火)、友人と高野山を訪ねました。
9世紀の初め、空海によって創られた真言密教の聖地は杉林の中に1200年の歴史をとどめていました。高野山も大小さまざまな争乱に巻き込まれ、全山が危うく焦土と化す状況になったこともありました。
現在、高野山には名だたる戦国武将の墓地がありますが、これは高野山が大名に対して積極的に先祖の供養をするよう働きかけたためで、高野聖と呼ばれる信者が勧進と呼ばれる募金を行い各地を行脚しました。
高野聖を数百人殺戮した信長の墓がこの地に有るのも何かの皮肉でしょうか。 一時は荒廃したり度々の火災により伽藍が焼失しましたが、紀州の山上に今もなお存在し続けているのは何故でしょうか。
秀吉も母の菩提を弔うために「青巌寺」を建立しますが、明治2年(1869)に「金剛峯寺」と称されるようになりました。弘法大師(遍照金剛)から名付けられました。
高張提灯に桐の紋が入っているのは秀吉の威光がみられます。
奥の院に吹き抜ける清風に空海をこの地に導いた山の民の気配が感じられる一日でした。


No.30    (伊根町の舟屋ヘ)    2020/5/23

5/22、友人と3人で伊根町の舟屋の風景を体感しようと出かけました。
観光案内所前の伊根浦公園の舟着場に立つと薫風が心地よく、山側の木立はモコモコしていました。この地は「男はつらいよ寅次郎あじさいの恋」で、いしだあゆみとの共演の場所です。
水面はおだやかで海底がはっきり見えるほど澄みきっていました。舟屋の2階には干し物がしてあり、近くでは背黒カモメが身を憩めていました。
遠くにはオオミズナギドリの繁殖地として有名な冠島、沓島が望めます。
伊根湾の海面にせり出した舟屋は「切妻造」の妻面を海に向けて建てられ、1階が舟揚場、作業場、2階が居間になっており、作業場の床は舟を引き揚げるために傾斜しています。土台や柱は椎の木で出来ており、梁は松の木で出来ているそうです。
舟屋は江戸中期頃からあり、現在230軒が確認されています。ほとんどの建物が明治から昭和初期にかけて現在のような2階建てになりました。生活の基盤は山側の母屋にあり、漁業中心の生活が現在も引き継がれています。
山側には女性杜氏で有名な「向井酒造」があり、連続テレビ小説「ええにょぼ」でよく知られています。コロナ解禁の初日でしたので歩いている人は皆無で、食事できる店は唯一「兵四楼」さんがこの日から開店されており、海鮮丼を美味しくいただきました。


No.29    (日本海へ…)    2020/5/3

5/1は日本海へ釣りに出かけました。京都から小浜まで約1時間半、湖西道路から 303を経由し、小浜駅前から「若狭フィッシャマンズ・ワーフ」に到着し、14時に遊漁船「幸洋丸」は出港しました。ベテランの山崎船長は順調に水面を滑らします。今日のfishermanは9名(内一人は女性)です。
左舷に大飯原発を望み、若狭湾に入り約1時間半、冠島の近海、日本海に到着しました。船が錨を下ろすと約85mの海底に釣糸を垂らし、明るい時間帯は鯛や鯵を釣りました。
この日はベタ凪で、西の海面に夕日が沈む時間はとても素晴らしく、自然の雄大さを感じます。 釣り船に明かりが灯ると烏賊釣りを始めます。真イカ、スルメイカが面白いように釣れます。船に引き上げると墨を吐くのもいて、注意しないと服を汚します。0時ごろまで釣りを楽しましてもらいました。釣果は鯛3、鯵3、烏賊24でした。
いただいた魚、烏賊は西堀シェフの調理で刺身、茗荷と烏賊の酢味噌合え、焼き鯛、〆にはイカと山芋の丼を美味しくいただきました。


No.28    (ウポポイがオープン)    2020/3/6

アイヌ民族は人類学的には古くから日本列島に住み着いた縄文人で、近年の遺伝子調査によるとDNAが最も近いのは琉球人で、母系の系統を表すミトコンドリアDNAの系統解析では本土日本人とは大きく異なります。
坂上田村麻呂による蝦夷征伐以前の東北地方の古墳時代人には北海道の縄文人と同じ系統の遺伝子が見られます。
私見ですが日本列島に広く分布していた人々が大陸から渡って来た人々(弥生人)によって列島の南と北に分断されたのだと思います。
江戸時代から明治時代においては、松浦武四郎の案で、蝦夷地は「北海道」と改称され、屯田兵や一般の農民たちが次々に入植し、アイヌは山の奥地に追いやられます。また、それまでの伝統文化は「和人の文化」に強制され、アイヌの上着である厚子(アツシ)も着物のかさね方と同じように改められます。
過日、NHKで放映された「永遠のニシパ」では、アイヌの本来のそれ(着物とは異なるかさね方)になっていました。さすがNHKです。
日本列島においても「まつらわぬ人々」を強制的に服従させていったのです。 今年4月には管官房長官の肝いりでウポポイ(民族共生象徴空間)が白老町にオープンします。


No.27    (ヴェイパーフライ)    2020/2/1

マラソン、駅伝など陸上長距離レースで記録更新のタイム が続出しています。
1/12に「全国女子駅伝」を見に行きま したが、ほとんどのランナーがナイキの厚底シューズ「ヴ ェイパーフライ」を履いていました。
世界陸連は1/31に、シューズに関する規則の修正を発表しました。
新ルールは、4/30以降はレースの4ヵ月前からオンライン、店頭で購入できること、ソールの厚さは最大で37mm 、反 発を生むカーボンファイバーは1枚のため合法 としました。
全面的に禁止したら「ナイキ」からの損害賠償請求がなされる可能性があるための措置とも思えます。
現在市場に流通しているものは今年の東京五輪でも使用出来ることにな なります。


No.26    (京都西山トレイル)    2019/11/8

11/4(月)に嵐山から松尾山、苔寺谷を経由して桂坂野鳥公園まで約7kmのコースを散策しました。
阪急嵐山駅を西へ、突き当りの道を南に歩くと、す ぐに入口の細い道が山の方に伸びています。
しばらく 急な坂道を登って行くと見晴らしのいい場所があり、 眼下に嵐山モンキーパークが望めます。
遠くには愛宕 山も望めます。
さらに歩きますと松尾山(275.8m)の頂 上に到着します。
幾つかの尾根を越え、苔寺谷へ到着 します。西芳寺川の畔で昼食をとり、川を渡って丁塚 を目指します。
丁塚とは山岳宗教が盛んな時代に山伏 、行者が土中に経巻を埋めた経塚があった場所と思わ れます。
近くに峰ケ堂の地名が残り、御堂もあったよ うです。
丁塚から沓掛山の方向を目指し、途中から桂 坂野鳥公園の方へ下山しました。昼食の30分を含めて 約4時間のコースでした。
途中、昨年9月の台風21号に よる倒木が多々見られました。


No.25    (即位の礼)    2019/10/1

新天皇の御即位をお祝いする「即位礼正殿の儀」は10月 22日に執り行われ、今年限りの「国民の祝日」となりま す。
「黄櫨染御袍」(こうろぜんのごほう)に身を包まれた 天皇が「高御座」(たかみくら)に昇られ、皇后は「唐衣・ 裳装束」で「御帳台」(みちょうだい)に昇られ、皇族方は 束帯姿および唐衣・裳装束で下に控えられます。
天皇の「 おことば」があり、内閣総理大臣が寿詞を述べ「万歳三唱 」を行い、自衛隊により、21発の礼砲が撃たれます(1688 年、名誉革命の時にウイリアムとメリーを迎えた時に21発 の空砲を撃ったのが起源)。
皇居宮殿・正殿松の間、中庭 には幡旗が建てられ、文官、武官の装束を身につけた内閣 府、宮内庁職員が「威儀物捧持者」として奉仕します。


No.24    (祇園祭は…)    2019/7/17

「祇園祭」という名称は元来、八坂神社が比叡山延暦寺の末寺「祇園感神院」と呼ばれていたことによります。
江戸時代までは神社でもあり、お寺でもあったわけです。
釈尊がインドで説法を行った場所「祇園精舎」に因み、八坂神社は「祇園社」とも呼ばれ、牛頭天皇が祭神です。
明治の「廃仏毀釈」により八坂神社となりました。
貞観11年(869年)、全国で疫病のが流行したのを祓う意味で神泉苑の前庭に66本の鉾を建て(当時の日本国内の国の数)祇園社の牛頭天皇を祀りました。
応仁の大乱(1467~77)で祭は途絶えましたが、明応9年(1500年)、町衆の力で再興され中国、ペルシャ、ベルギー等からもたらされたタピストリー等の豪華な懸装品が飾られるようになりました。
2009年にはユネスコ無形文化遺産にも登録されました。
前祭(7/17)と後祭(7/24)の合同巡行が続いていたのですが、本来の形を取り戻そうと2014年から約半世紀ぶりに後祭の山鉾巡行が復活しました。


No.23    (G 20大阪サミット)    2019/6/22

「2019年G20大阪サミット」が6/28、29に開催されます。
メンバー国や招待国の首脳、国際機関37の国や機関が参加します。
メンバー国はG7(フランス、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本、イタリア、カナダ、欧州連合)のほかメキシコ、ブラジル、アルゼンチン、オーストラリア、インドネシア、韓国、中国、ロシア、インド、サウジアラビア、トルコ、南アフリカ、の国で、招待国、国際機関は、オランダ、シンガポール、スペイン、ベトナム、タイ、エジプト、チリ、セネガル、国連、IMF 、世界銀行、世界貿易機関、国際労働機関、金融安定理事会、経済協力開発機構、アジア開発銀行、世界保健機関となっており議題は世界経済、貿易、投資、開発、気候、エネルギー、雇用、テロ対策、移民、難民問題などがあります。
世界の首脳がインテック大阪に集いそれぞれの利害をぶつけ合うのですが、安倍首相は会議の主催国としてオピニオンリーダーになれるでしょうか。
米中の貿易戦争、英国のEU 離脱、アメリカとイランの衝突、難しい問題が山積しています。


No.22    (1億5千万円のトイレ)    2019/4/21

4/21、東寺の「弘法さん」に行って来ました。
目的は1億5千万円かけてつくられた東司(とうす)=トイレを体感するためです。
東寺さんの東門から入り、露天を抜けると右側にそれはありました。
建材には国産のヒノキが用いられ、中に入ると檜の香りがしました。
宮大工さん達が作った東司だけあって、破風(はふ)、懸魚(げぎょ)、垂木(たるき)など立派でした。
瓦も多分、淡路産の粘土瓦で、鬼瓦、軒丸瓦も三つ巴の紋入りで立派でした。
今日はまだ4月ですが、気温が26°C まで上がり、弘法さんに集った人々も半袖Tシャツの外人さんが多く見かけられました。
毎月21日は弘法大師の縁日(逝去した日)とされ、「弘法市」が開かれています。露天の数は約1200店で、毎月20万人が訪れます。
骨董、古着、植木、etc. 朝5時~夕方4時頃までとても賑やかです。


No.21    (養源院へ…)    2019/4/13

4月8日は釈尊の誕生日(花まつり)でした。
友人と養源院、智積院に行って来ました。
養源院は元来、浅井家の菩提寺ですが、徳川家の幔幕が掛かっています。
姉川の戦い(1570年)で敗死した浅野長政と越前北ノ庄城で自害したお市の方の霊を弔うために、1594年に茶々(淀殿)が秀吉に願って創建されました。
元和5年(1619年)火災で焼失しましたが元和7年(1621年)にお江(崇源院)の願により再興されましたが、当所、徳川の敵対する淀殿、秀頼の菩提をも弔うということで徳川家では反対しましたが、関ヶ原の戦いの前に、伏見桃山城で自刃した、鳥居元忠ほか徳川方の武士の霊を弔うということで、桃山城の床で血天井を造り、再建が許されました。
また、お江が亡くなった後には天皇に嫁いだお江の娘の徳川和子(東福門院)によってお江の霊を弔うため高さ6mの宝篋院塔が庭に建立されています。
帰り道に聖徳寺の近くで、白象に乗った誕生佛に甘茶をかけて釈尊のBirthdayをお祝いしました。


No.20    (お水取り)   2019/2/22

東大寺、二月堂の修二会(しゅにえ)は「お水取り」として知られています。
その本行はかっては、旧暦2/1から15日まで行われていましたが、今は新暦の3/1から14日まで行われています。
二月堂の本尊、十一面観音に練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる精進潔斎した行者が過去の罪を懺悔し、その功徳により興隆仏法、天下泰平、万民豊楽、五穀豊穣などを祈る法要行事で、関西では「おたいまつ」と呼ばれています。
東大寺の開山、良辨(ろうべん)の弟子、実忠(じっちゅう)が嘉承元年(1106年)に創始したと言われています。
3月12日の深夜(13日、午前1時)、松明に照らされ、南の石段を下り、閼迦井屋(あかいや)、別名、若狭井の香水を汲み、内陣に運ばれ須弥壇下の香水壺に蓄えられるのです。
この水は小浜市の若狭神宮寺から3月2日の「お水送り」により送られたものとされています。
この伝説は二月堂の前に良辨杉が聳えるのと同様、良辨の出生地が若狭ということに起因すると思われます。


No.19    (ひいなまつりの歴史)    2019/2/13

雛祭りの起源は中国の漢代に遡ります。
漢の徐肇(じょちょう)は3人の女児をもうけたのですが、3人ともすぐに亡くなります。
その女児の亡骸を浄めて水葬したことに由来します。
日本では平安時代、上巳(じょうし)の節句と言って、無病息災を願う祓いの行事があり、天地の神に祈り季節の食物を備え、人形(ひとがた)に自分の災厄を託して海や川に流しました。
上巳の節句が3月3日に定まったのは室町時代です。
江戸初期の寛永6年(1629)、京都御所で盛大な雛祭りが催されました。
幕府の大奥でも雛祭りを行うようになり、上流社会から町人へと広がりました。
雛人形の起源は平安時代の『源氏物語』に初見の天児(あまがつ)、抱子(だきこ)で、立雛(たちびな)を海に流すシーンが『須磨の巻』に書かれています。
現在のような雛人形は、寛永雛(1624~1644)、元禄雛(1688~1704)、享保雛(1716~ 1736)、寛政雛(1789~1801)と時代により変化が見られ、現在では有職雛や時代を風刺した雛人形も見られます。


No.18    (節分て何?)    2019/2/4

昨日(2/3)は節分でした。
「節分」とは季節を分けると言う意味で、立春、立夏、立秋、立冬の前日を節分と言います。
また、「二十四節気」というのもあり、一年を24等分し、15日ごとに、立春、雨水、啓蟄………冬至、小寒、大寒 と名付けられました。中国の戦国時代(BC 500~BC221)に考案されました。
また、「節句」というのもあり、「五節句」は、人日(ジンジツ)、上巳(ジョウシ)、端午(タンゴ)、七夕(シチセキ)、重陽(チョウヨウ)です。
節分の話に戻りますが、日本では、平安時代の宮中行事、追儺(ついな)が起源で、弓の弦を弾いて疫病を封じ込めようとしました。
また、豆まきの初見は室町時代(1425年)の宮中の『看聞日記』にあります。
余談ですが、鬼の姿が、角を生やし、虎の褌を着けるのは、鬼門の方角に丑(うし)、寅(とら)があり、牛の角を生やし、虎の褌を着けるのです。


No.17    (亥の年)    2019/1/22

今年は亥の年です。
今年も護王神社に伊豆の斉藤ファームから、白いのししのカリンちゃんと黒いのししのモモゃんが1/11〜1/14まで来社しました。
護王神社の起源については先の「お知らせ」のページで紹介しましたので、ここでは省かせていただきます。
猪は鯨偶蹄目、イノシシ科の一種で日本には日本イノシシと琉球イノシシが分類されています。
米国のアラバマ州では体長2.8m、体重470kg もある極大な猪が仕留められています。
古くから狩猟の対象とされてきた動物で、非常に神経質で警戒心の強い動物です。
犬以上に鼻が利き、植物の根や芋などが好物で、泳ぐことも得意です。
日本に住む猪は唯一人間が天敵です。
駆除経費の確保と地域振興を兼ねて、 現在、狩猟や罠で捕獲された猪肉はジビエ(狩猟肉)として加工、出荷されています。


No.16    (稲荷山へ…)    2018/12/18

過日、登れていなかった稲荷山に登りました。 
脇参道を抜け、本殿にお詣りして、千本鳥居をくぐり抜け、中腹の茶店に寄り休憩し、甘酒、ぜんざいをいただき、登りを進めますと、山の谷には先般の台風よる杉や樫の倒木が多数見られました。
稲荷山を一周するには約2時間かかりました。
「稲荷」とは稲を荷うという意味で、五穀 、食物を司る神様が祀られています。
全国に三万社ぐらいあると言われています 稲荷神社の総本山が伏見稲荷大社です。  
古代には「春に山の神が里に降りてきて、田の神となり秋に収穫が終わると山に帰る」という信仰があり、山と里を行き来する狐の習性により狐が「田の神様」 とされたことが相まって、狐が稲荷の使いとされたとも言われています。
農民にとっての五穀豊穣は商人にとって の商売繁盛ということで、江戸時代には いつしかお金持ちの家などで祀られて、 現在にいたっています。


No.15    (酔心にて…)    2018/12/6

『酔う心』を考えてみました。
酒に酔う、船に酔う、妙技に酔うなどなど、自制心を失うことと広辞苑にあります。
粋(いき):気性、態度、身なりが垢抜けしている。
偏が違うだけで部首は同じです。酒を呑んで酔っぱらっても少量では人の心を和ませますが、度を過ぎると良い結果になりません。
粋も度を過ぎると野暮ったくなります。
どちらも『過ぎたるは猶及ばざるが如し』と孔子が言っています。体にいいと言われている食材でも食べ過ぎたら痛風になります。
今の季節は忘年会のシーズンですが、酒も食事も程よく酔っぱらい、粋に人生を満喫したいですね。今日は全国的に温い気候でしたが、週末頃から冬に戻るそうです。
ボチボチと季節の移ろいを体感したいですね。


No.14    (ウカノミタマ)    2018/11/24

伏見稲荷大社の起源は、和銅4年 (711年)2月7日、伊侶巨秦公が元明 天皇の勅命を承けて稲荷山の頂きに 稲荷大神を祀ったことに由来します 。
須佐之命と神大市比売から生まれ た「宇迦之御魂神」が主祭神です。
「ウカ」は穀物、食物の意味で、穀物 の神(女神)をお祀りしています。
食物神は天照大神や天皇の食事を司 ることから「御饌津神」(みけつかみ) と呼ばれ、関西では狐を「ケツネ」と 呼んだことからウカノミタマには、 「三狐神」(ミケツカミ)の字が当てら れています。
11/13、近くに用事が あって、お稲荷さんに行ってきまし た。
平日の夕方でしたが、大勢の中 国語を話す観光客でいっぱいでした 。千本鳥居付近では着物を着た女性 達がしきりにスマホのシャッターを 切っていました。
稲荷山へ登ろうと 千本鳥居を抜けると、ここから上は 過日の台風の影響で通行止めになっ ていました。残念!


No.13     (愛宕山へ登山)    2018/10/31

旧称、阿多古神社は大宝年間(701~704)の創建とされ、天応元年(781)に慶俊僧 都、和気清麻呂により中興され、愛宕山 に愛宕大権現を祀る「白雲寺」が建立さ れ、山中には中国の五台山を模した白雲 寺、月輪寺、神願寺、日輪寺、伝法寺が 建立されていました。
江戸時代には多々 の住坊があり繁栄していましたが、明治 の神仏分離により白雲寺は廃され愛宕神 社になりました。
10/29に同僚の四人で登山しました。片 道4kmの道程ですが、急な坂道、石段の 続く山道を登って行くと、先の台風21号の爪痕が至る所に見ら れ、杉の巨木が根刮ぎ倒れ道を塞いでいました。
チェーンソー で切り取られた箇所が10ケ所程ありました。
平安時代には、ここから天皇家に冬場の薪を、中世には薪能の 薪を奉納していましたので「御薪(おたきぎ)」と呼ばれていて 愛宕(おたぎ)郡となったそうです。
また、本居宣長は伊邪那美 の最後の子、加具土命=火の神が産まれたために伊邪那美が死 んで「仇子(あだこ)」=愛宕となったと言っています。
私見では、南さつま市の金峰町に「阿多(あた)」という地名が ありますが、大和政権は天皇家一族と出雲の勢力、そして阿多 を中心とする隼人(はやと)勢力との連立政権だったと言われて います。
記紀には「阿多隼人」と「大隅隼人」が対置され登場 します。古代に隼人一族は畿内へ大量移住しています。大隅隼 人は京田辺市の大住(おおすみ)へ阿多隼人は京都市北嵯峨の阿多郷(あたごう)=愛宕(あたご)へ。という事だと思います。


No.12     (ひごろっか)    2018/10/25

肥後六花(ひごろっか)は京都の西院 にある居酒屋さんです。 オーナーが肥後國(熊本)出身の方で 細川の殿様が愛した肥後の6つの花 (菖蒲、芍薬、朝顔、菊、山茶花、椿) が店の名になっています。
この店においてある地酒は産山村、 泰斗、花の香、雲雀、菜々、霊山 亀萬 等々。焼酎は産山村、山ほた る、武者返し、村正、二階堂、三岳 等々。純米吟醸の産山村(うぶやまむ ら)は誕生から18年目を迎えるお酒 です。
この酒は「五百万石」という酒米を使用しています が、この米は田んぼに鯉を放流し、害虫を食べてもらうこ とで完全無農薬で栽培しています。
仕込水は産山村内にあ る日本百名水にも選らばれている「池山水源」の水を使用 しています。
山鹿市の「千代の園酒造」で仕込んでいます まだ、この酒を飲んだことのない方には、ぜ…………ったい オススメです。また、食材は馬刺し、からし蓮根、炭火焼 きステーキ、高菜チャーハン、あまおうアイス、時には、 天草大王(地鶏)等々がオススメです。
一度出かけてみてください!


No.11    (同田貫?)    2018/10/12

過日、京博に刀剣を観に行きました。
「三日月」、「鳴狐」、「左文字」、 「同田貫」、「五虎退」など見事な 業物が展示されていました。
ここでは敢えて伝説の拝一刀(子連れ 狼)の打刀、同田貫を紹介します。
同田貫(どうだぬき)は九州、肥後國 菊池(きくち)の同田貫(現、菊池市稗 方)を本拠地に活躍した刀工集団です 。
もとは京都粟田口で「来派(麗派)」 を名乗り、次に「延寿派」を名乗りました。
麗派の麗は、 その祖先が「高麗」に由来するものと思います。
菊池氏 の刀工として活躍していましたが、菊池氏の衰退と共に 隈本城主、城親冬→加藤清正→細川忠興とスポンサーが 代わりました。
彼らが鍛つ剛刀は本拠地を玉名に移し、 明治42年の清正公300年祭には熊本市の加藤神社に太刀 一振と薙刀一柄が献納されました。


No.10    (オプジーボ)    2018/10/5

10月1日、京都大学の本庶佑(ほんじょ たすく)氏がノーベル医学、生理学賞に 決まりました。
小野薬品工業で開発されたニボルマブ (商品名オプジーボ)は、癌細胞に免疫 のブレーキを踏めないようにブロック する新薬で、「免疫チェックポイント 阻害剤」と呼ばれる新しいタイプの薬 です。
癌細胞は免疫細胞から攻撃されると、 それを抑制する分子(PD-L1)を出して 免疫細胞の攻撃をストップさせるのです。
私達の体を異物から護る司令塔とも言うべきT細胞は白血球 の中のリンパ球と呼ばれる細胞の一種で、直接癌細胞を攻撃 するNK(ナチュラルキラー)細胞や、マクロファージ(インタ ―フェロンなど)に司令し、癌細胞に攻撃をかけるのです。
T細胞さん、NK細胞さん、マクロファージさんありがとう。


No.9     (マヅラ喫茶店)    2018/9/30

過日、友人と大阪に行った折りに 入店した喫茶店は大阪駅前第1ビル B1Fにあります。
店名の由来は、オーナーの劉さん (94歳)が19歳の時にインドネシア のマドゥラ島へ旅行した折りに知 り合った女性に、「自分の店を開 く時は、君を思い出して島の名前 を店名にする」と約束したことに 由来するらしい。
インドの仮面劇、マハーバーラタ、ラーマーヤナなど の盛んな島でもあります。
また、この時代1943年5月には、御前会議でインドネ シアは帝国領土とするとされ、女性達は看護婦にする と連れて行かれ「従軍慰安婦」にさせられ、特に戦争 の末期になり、朝鮮から慰安婦を連れて来られなくな るとジャワの女性達が東南アジアの各地に送り込まれ ました。
マドゥラ島はジャワ島のすぐ東にあります。


No.8    (中秋の名月)    2018/9/27

9/24は中秋の名月でした。
明代の中国では月を愛で、宴会を開き、 月餅を贈り合う習慣がありました。
日本では室町時代に入って名月の日に 月を拝み、お供えをする風習がありま した。
東アジアでは、旧歴の8/15にはサトイ モの収穫祭のある地域が多く、日本で もその日にサトイモを食べる習慣があ りました。
月見が世俗化した江戸時代 には十五夜の日には芋煮を食べて夜遊 びするのが一般的でした。
「中秋」とは旧歴の8/15のことで、日本の六曜では必ず 仏滅となることから、俗に「仏滅名月」とも呼ばれてい ます。
今年は天候が悪くて月が見えませんでしたが9/26 の朝5時頃には西の山にきれいな望月が見えました。


No.7     (台風が生まれる)    2018/9/5

夏の終り頃には台風が日本列島を襲います。台風の生まれる場所は、広い南洋の海の上と南シナ海です。
赤道より少し北(北 緯5°)から日本の南の海上(北緯 30°)までの広い地域です。
強い台風が生まれる場所はマリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島、硫黄島の付近です。
熱帯地方の海面は強い太陽の光 を受けて温められ、海面から大量の水蒸気が蒸発します。
その ため海面上の空気は湿り気が多くなり、上昇気流を起 こし、この強い上昇気流のあるところに台風の渦巻き が出来るのです。
風速が17m以上になったものを台風 といい、中心気圧があまり低くなく、風速の弱いものを熱帯低気圧といいます。
しかし、最近では高気圧から赤道方向に向けて吹き出した風が偏東風になり、台風が発生するという説もあります。


No.6     (サンマ豊漁!)

記録的不漁から一転、今年は サンマが豊漁。漁期の初めに こんなに獲れるとは、どうし た事だろう。
根室の花咲港に は大量のサンマが水揚げされ た。
今年は、暖かい海水の塊 (暖水塊)がサンマの通り道を ふさいでいない事やエサとな る植物プランクトンが豊富な 事が豊漁の原因になっていま す。
「目黒のサンマ祭」でも 7000匹のサンマが無料で振る 舞われ、徳島のすだちと、那 須塩原の大根おろしも添えら れ、美味しそうでした。




No.5     (魚釣りに行きました)

8月末に小浜港より幸洋丸で 約1時間、冠島の近くで釣り をしました。
何度も行っているのですが、 行く度に新しい発見があり ます。
水深80〜90mの底まで 錘を下ろし、釣るのですが、 季節と潮の流れによって釣れ る魚が違います。
昼はアジ、マダイなどが釣れ 夜はマイカが釣れます。
釣れた魚、イカは我等の西堀 シェフが調理してくれますの で毎回美味しくいただいてお ります。





No.4    (流れてきた大山椒魚)

この夏の大雨で、鴨川の上流 より、オオサンショウウオが 流されて来ました。
(その時の写真です) サンショウウオの語源は体の イボが山椒の木の樹皮に類似 することや、山椒の匂いに似 た白い汁を皮腺から発する事 に由来します。
この名は室町時代から見られ 古くは山椒を「ハジカミ」と 呼んでいたことから「ハジカ ミウオ」と呼ばれていました 。
ところで、あの大山椒魚は 上流の谷川へ帰れたのでしょ うか? 雲ケ畑は遠いからな




No.3   ( 近江沖島)

思い立って、以前から行って見たかった 琵琶湖に浮かぶ唯一の有人島、「沖島」 に行って来ました。
「平治の乱」(~1159)で沖島に逃れた源氏 方の七士(茶谷、北、小川、西居、久保、 中村、南)が住みついたことに始まると言 われています。
帰りの連絡船の中で下校中の小学生の女 の子と話しをしました。
小学校の生徒数 は19人(島内2、島外17)で、その子たちは 島が好きだから島外から通っているそう です。
防波堤にはネコたちがのんびり昼 寝をしていました。 その時に作った詩です。



「近江沖島」 作詞 釈 芳春

赤いカバンの少女が二人
近江小島の通い船
頬にはじける水面の風に
遠い昔を偲ばせる
戦に折れし強者たちの
七士の祈り奥津嶋
青旗の嶺棚引く風の
琵琶の音色に誘わる
浜に集いし野猫の群れは
長閑き今日を惜しむかな
学舎終えし学徒の列は
島を離れて家路を急ぐ
青旗の嶺棚引く風の
琵琶の音色に誘わる
琵琶の音色に誘わる

【画像解説】(沖島)


No.2 (無印良品に生鮮食品が!)

過日、同僚の西村さんと堺の 「無印良品」の店舗に行って きました。
大阪方面から電車 で大和川の下をくぐるとすぐ に「北花田」駅に着きます。
歩いてすぐの所にイオン堺 北花田店があり、1歩足を踏 み入れると一階の広い全ての スペースが「無印良品」の店 舗になっています。
この店舗の目玉は生鮮食品が 販売されているところです。 私たちはマグロの切り身と、 炊きたての五穀米を買い、風 通しのいいオープンスペース で美味しくいただきました。


No.1 (曜変天目茶碗)

過日、おっさん四人で、曜変天目茶碗を見に行って来ました。
中国南宋時代の作で、国宝です。
稲葉天目の名で知られ、徳川家光 → 春日局 → 稲葉家 → 岩崎小弥太と所有が代わり、現在は静嘉堂文庫の所蔵となっています。
信長の時代、本能寺に持ちこまれた茶器には禅僧が大陸から持ち帰った名品が多々あったと思われますが、その全てが灰塵に帰してしまいました。


戻る